「慰安婦」問題における「強制性」否定論の検討:学術的根拠と国際法・人道法からの批判
はじめに
本稿では、「慰安婦」問題に関して、日本軍や日本政府による女性に対する「強制性」の存在を否定する主張について、その内容と依拠する論点を提示し、これに対する学術的批判と歴史的事実に基づいた反証を詳細に解説いたします。歴史学を専攻される皆様が、この複雑な問題に対する理解を深め、多角的な視点から考察するための基盤を提供することを目的とします。
「強制性」否定論の主張内容
「慰安婦」問題における「強制性」否定論の主な主張は、以下の点に集約されます。
- 軍による直接的な「強制連行」の否定: 慰安婦の募集は、主に民間の業者が行い、軍が直接女性を拉致したり、強制的に連行したりした事実はないとされます。
- 契約に基づく売春婦としての位置づけ: 慰安婦は高額な前借金を条件に募集されたり、自らの意思で売春を生業とする女性がほとんどであり、当時の公娼制度の延長線上にあるとされます。したがって、本質的には「性奴隷」のような状態ではなかったと主張されます。
- 吉田清治証言の虚偽性への依存: 吉田清治氏による済州島での「慰安婦狩り」の証言が後に虚偽とされたことを根拠に、慰安婦問題全体の「強制性」が否定されるべきであると主張されます。
- 学術的根拠の限定的解釈: 日本政府や日本軍の公文書からは、慰安婦の募集や管理における「強制性」を直接示す証拠は確認できないとされ、これを根拠に「強制性」の全面的な否定が試みられます。
主張が依拠する根拠とされている論点
上記の主張は、主に以下の論点に依拠しています。
- 「軍による直接的な連行を命じる公文書が存在しない」という点: 軍が直接、組織的に女性を拉致・誘拐するよう指示した命令書や公文書が見当たらないことを重視します。
- 「高額な収入を得ていた証言」の存在: 慰安婦の中には高額な収入を得ていた者もいたという一部の証言や記録を挙げ、自発的な契約による売春であったと解釈します。
- 「公娼制度との比較」: 当時、合法的に存在した公娼制度と慰安所制度を同列に扱い、女性が自らの意思で選択した職業であったと見なします。
- 「吉田清治氏の証言撤回」: 『私の戦争犯罪』などで自身の体験として朝鮮人女性を強制連行したと語った吉田清治氏の証言が、後に事実と異なると判断されたことを、慰安婦問題全体における「強制性」の否定論を補強する強力な根拠として提示します。
歴史的事実・学術的根拠と問題点
上記の主張は、多岐にわたる歴史的事実、学術的根拠、および国際法の観点から、その正当性が疑問視され、多くの問題点を抱えています。
1. 「強制性」の概念と実態
「強制性」の定義を、軍による直接的な「暴力的な連行」のみに限定することは、問題の本質を見誤るものです。歴史学研究では、「強制性」はより広範な意味で捉えられています。
- 間接的・構造的な強制: 戦時下における貧困、植民地支配下の差別、家族への借金、欺罔(だまし)、誘拐、人身売買など、女性が自由な選択を極めて困難にする状況全体を「強制性」とみなす必要があります。例えば、吉見義明氏の研究(『従軍慰安婦資料集』、1992年、大月書店など)は、軍が慰安所の設置・管理に関与し、業者の募集活動を黙認・促進したことを示す多数の日本軍・政府文書を提示しています。
- 現地の状況: 特に朝鮮半島や占領地では、日本軍の進駐に伴い、地元の警察や憲兵が業者の募集活動に協力したり、黙認したりしたケースが確認されています。これにより、女性たちは半ば公的に連行されるかたちとなりました。
- 「慰安婦」にされた女性たちの証言: 韓国、中国、フィリピン、インドネシア、オランダなど、各地の元慰安婦たちの証言は、多くの場合、騙し、誘拐、借金漬け、あるいは直接的な暴力によって慰安所に連れて行かれた実態を詳細に語っています。これらの証言は、個々には記憶の不曖昧さや食い違いがある可能性が指摘されることもありますが、全体として共通するパターンを示しており、単なる虚偽とは言えません。
2. 公文書における軍の関与
「軍による直接的な連行を命じる公文書が存在しない」という主張は、軍が慰安所の設置、管理、衛生指導、慰安婦の移送などに深く関与していたことを示す多くの公文書の存在を無視しています。
- 陸軍省通達、海軍関係文書、外務省文書: 例えば、1938年の陸軍省兵務局兵務課長通達「支那事変に伴う在留邦人婦女に関する件」は、慰安施設設置の必要性を認識し、業者による募集に際して憲兵および警察による取り締まりを指示しつつも、実質的にその存在を黙認・促進していたことを示しています。また、外務省の電報記録には、業者による募集の横暴や人身売買の実態が本省に報告されていたことが記されており、政府当局がその状況を認識していたことが分かります。これらの資料は、秦郁彦氏(『慰安婦と戦場の性』、1999年、新潮社)や、中央大学の吉見義明研究室が公開している資料集などで広く参照可能です。
- 間接的関与と法的責任: 国際法や現代の人権規範の観点からは、軍が直接連行していなくとも、その設置・管理に関与し、女性の自由を著しく制限する状況を黙認・助長したこと自体が、国家としての責任を問われる根拠となります。
3. 「高額な収入」の神話
「高額な収入を得ていた」という主張は、以下の点で問題があります。
- 契約と実態の乖離: 多くの慰安婦は多額の前借金によって自由を奪われ、その返済のために労働を強いられました。また、戦地で使われた「軍票」は、本国通貨との交換が困難であったり、敗戦によって無価値になったりしたため、実質的な収入はごくわずかであったケースがほとんどです。
- 移動の制限と自由の剥奪: 慰安婦は基本的に慰安所からの移動を制限され、軍の管理下に置かれていました。これは、通常の公娼制度における女性の移動の自由や契約解除の権利とは大きく異なる点であり、国際的な人身売買や性奴隷と見なされる状況に近いものでした。
4. 吉田清治証言の誤用
吉田清治氏の証言が虚偽であったことは、すでに広く知られています。しかし、この事実が「慰安婦」問題全体の「強制性」を否定する根拠にはなりません。
- 個別の証言と全体像: 吉田証言の誤謬は、彼の個人的な体験談の信憑性に関するものであり、他の多数の元慰安婦の証言、そして日本軍・政府の公文書によって裏付けられる「強制性」の全体像を否定するものではありません。学術研究は、単一の証言に依存するのではなく、多様な資料を総合的に分析することで歴史的事実を構築します。
- 論点のすり替え: 吉田証言の虚偽性を盾に、「強制性」そのものを否定しようとする議論は、本質的な議論から目をそらすための「論点のすり替え」であると批判されます。
5. 国際法・人道法からの批判
「慰安婦」制度は、当時の国際法や現代の人道法から見ても重大な問題を含んでいます。
- ハーグ陸戦協定違反: 占領地での住民の生命、財産、宗教、名誉、家族の権利などを尊重する義務を定めたハーグ陸戦協定(1907年)の精神に反する行為であったと指摘されます。特に、女性を強制的に連行し、性奴隷同然の状況に置くことは、この協定の根本原則に明確に違反します。
- 奴隷条約違反: 当時の国際社会で奴隷貿易・奴隷制を禁止する動きがあった中で、実質的に人身売買や性奴隷の状態を容認・助長したことは、奴隷条約(1926年)の精神に反するとも解釈されます。
- 国連人権機関の見解: 国連人権委員会(現在の国連人権理事会)などの国際機関は、多数の報告書において、慰安婦制度を「性奴隷制」と認定し、日本政府に謝罪と賠償を求めてきました。クマラスワミ報告(1996年)、マクドゥーガル報告(1998年)などが代表的です。これらの報告書は、国際的な法と人権の観点から問題の深刻さを明確に指摘しています。
まとめ
「慰安婦」問題における「強制性」否定論は、特定の限定的な視点から、多角的な歴史的事実と学術的根拠を無視または矮小化するものです。この主張は、主に以下の問題点を抱えています。
- 学術的根拠の欠如と選択的証拠の採用: 日本軍・政府の公文書、元慰安婦の証言、当時の社会状況や植民地支配の文脈を包括的に検討せず、自らの主張に都合の良い情報のみを選択的に用いる傾向が見られます。
- 歴史的文脈の無視: 戦時下という特殊な状況、そして植民地支配下における女性の脆弱性や人権意識の低さといった、当時の歴史的文脈を十分に考慮していません。
- 「強制性」の定義の恣意的限定: 「強制性」を軍による直接的な暴力的な拉致に限定し、欺罔、誘拐、人身売買、借金による拘束といった間接的・構造的な強制力を意図的に見落とす論理的飛躍が見られます。
- 特定の政治的意図: これらの主張の背景には、日本の戦争責任を矮小化し、国際社会における国家のイメージを護ろうとする特定の政治的意図が存在すると指摘されることが少なくありません。
歴史学を学ぶ皆様には、本問題に関して、特定の政治的主張に流されることなく、多様な一次資料、学術研究、そして国際法の見解を批判的に検討し、多角的かつ複眼的な視点から事実を再構築する姿勢が求められます。